サウナでゴリラとTumblr

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6月 28, 2009

私が体罰に対して懐疑的なのは、しばしば「教育のため」と強調されるからです。「愛しているから殴る」という親や教師もいる。ではそれが「教育」であり「愛」であることを、定義しているのは誰でしょう。ほかならぬ体罰を加える当の大人たちです。

以前に少し書きましたが、物事に名前をつけ、定義し、意味づけることは、それ自体が権力的な側面を持ちます。専制的な政治体制下で「暴動」「騒乱」と呼ばれる行為が、政権が転覆すると「革命」「民主化」などと言われたりする。現象は同じでも、どちらが権力を握るかで名称や意味づけが変わるのです。

「体罰」を「愛」とか「教育」と定義する背景にも、同様の権力的な裏付けがあります。より具体的にいえば、現状の体罰とは、(1)大人が子どもに暴力をふるう(2)大人はそれを「愛」「教育」と定義する、という二つの要素から成っていることがわかります。

これに比較できる例を挙げれば、セクハラに対する言い訳でしょうか。男性上司が女性部下の体を触って、「親しみの表現だった」というアレ。30年くらい前までなら、これで問題なく通っていました。なぜなら職場では男性上司が「定義する権力」を握っていたからです。

体罰を全面的に否定はしません。秩序維持や緊急避難に必要なケースはあり得る。私も偉そうなことを言いつつ、長男のお尻を一度叩いたことがあります。ただ体罰を「愛」「教育」と呼ぶとき、大人は暴力だけでなく、「定義する権力」も同時にふるっているという点には、せめて自覚的であるべきです。

児童虐待は英語で「child abuse」。「abuse」は、「abnormal」でも使われる接頭辞「ab」と「use」から成り、「乱用」「誤用」という意味です。米国で児童虐待対策の研究や実務を経験してきた専門家たちは、日本語の「虐待」との意味の違いをよく強調します。

英語圏の人々の日常語の感覚がわからないので、理解がずれているかもしれない点は留保しますが、日本語で「虐待」と呼ばれる行為を英語で「乱用」と呼ぶのを知ったのは目から鱗でした。まさに体罰を「愛」「教育」と呼ぶことも、一種の「乱用」ではないのかと。

「児童虐待」を「子どもの乱用」と解釈すると、乱用されるのは子ども自身だけでなく、大人と子どもの関係性、体や力の違い、社会的立場など多様。ほぼ全ての文脈で大人は子どもに優位に立てる。子どもへの暴力は、そうした重層的な構図に目を配りたい。子どもには「定義する権力」がないからです。

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